湯浅芳子とは
湯浅芳子は、1896年、京都の裕福な商家に生まれた。17歳で上京し、日本女子大学英文予科に入学するが、中退。ドストエフスキーをはじめとしたロシア文学に深く傾倒し、19歳から本格的にロシア語を学び始める。この頃、作家・田村俊子に惹かれ、愛するようになる。
雑誌編集者となった芳子は、24歳の時に出会った京都の芸妓・北村セイと恋愛し同居生活を送るが、別離。その後28歳の時(1024年)に、作家、野上弥生子の紹介で中條百合子と出会うことになる。出会ってすぐに惹かれ合った二人は、翌年から二人で共同生活をはじめ、その3年後の1927年、ソビエト・ロシア留学を決意し百合子も同行する。二人が留学から帰国したのは1930年11月。だが、帰国後まもなく、百合子は後の伴侶となる社会活動家、宮本顕治(後の共産党書記長)と出会う。1932年、百合子は芳子を捨てて顕治の元に走り、芳子と百合子の7年強にわたる愛も終わりを告げる。
芳子は、ゴーリキー、チェーホフなど多くのロシア文学を翻訳し、ロシア文学家、翻訳家として多くの業績を残す。代表作として知られるロシア童話「森は生きている」(サムイル・マルシャーク作)は、今も多くの子どもたちに愛され読み継がれている。エッセイ集に「いっぴき狼」「狼いまだ老いず」など。
晩年は、浜松の老人ホームに滞在。1986年に、本映画『百合子、ダスヴィダーニヤ』の原作者、沢部ひとみと出会い、沢部氏の取材により、その伝記『百合子、ダスヴィダーニヤ~湯浅芳子の青春』が出版される(1990年2月)。沢部氏が書き上げた伝記を、氏による音読で聞いた湯浅は「ほんま、よう書けたなあ、まるで見てきたみたいやな」と語ったという。その後まもなく、1990年10月24日、93歳の生涯を閉じた。遺族によって『湯浅芳子賞』設立。外国戯曲の翻訳上演等の功績のあった団体個人へ賞が与えられた。(現在は終了)
宮本百合子とは
宮本(中條)百合子は、1899年、建築家の父、中條精一郎と倫理学者西村茂樹の次女霞江の娘として生まれた。幼いころから才気煥発な娘だった百合子は、17才で初の小説『貧しき人々の群』を書き、坪内逍遥の推薦で中央公論に掲載される。本作は、幼いころから訪れていた祖父の家のある福島県の郡山で、目にした貧しい小作人たちの生活を描いたもので、発表時は「天才少女」として大きな注目を集めた。同年、日本女子大学英文予科に入学するが退学。19歳で父親と共に渡米、ニューヨークに一人残り留学生活を続ける。1919年現地で出会った15歳年上の古代東洋語研究家荒木茂と結婚。帰国する。その5年後の1924年、湯浅芳子と出会い『伸子』を書き始める。翌年、荒木と離婚。芳子と共同生活を始める。1927年から3年間、芳子と共にソビエト・ロシアに留学。ヨーロッパ旅行を経て帰国する。
1930年、百合子は日本プロレタリア作家同盟に加入。プロレタリア文学運動に参加し、その過程で、文芸評論家で後に日本共産党書記長になる9歳年下の宮本顕治と出会う。1931年に日本共産党入党。1932年に芳子と別れ、宮本顕治と結婚する。その後まもなく、プロレタリア文化運動に加えられた弾圧のため、顕治は非合法活動を余儀なくされ、まもなくスパイ査問事件の主犯の疑いをかけられ検挙。二人の結婚は12年に及ぶ別居生活となる。
百合子は作家として獄中の顕治を支え続け、自身も4回にわたり検挙、投獄、執筆禁止などの弾圧を受けるが、転向せず作品を書き続けた。その間二人が交わした約900通の書簡は、百合子の没後『十二年の手紙』として出版されている。
戦後、顕治が釈放され、共産党の活動が再開されると、百合子はプロレタリア文学の第一人者として社会運動や執筆活動に精力的に取り組む。また、新日本文学会、婦人民主クラブ創立のために働き、戦後のオピニオンリーダーとして多数の講演を行い、評論、執筆活動を行った。
1947 年『伸子』の続編にあたる『二つの庭』を執筆、連載。引き続き、『道標』を書くが、体調を崩し療養。1951年『道標』第3部執筆後、髄膜炎菌敗血症により51歳で急死する。自伝的小説としては、『伸子』『二つの庭』『道標』のほかに『播州平野』『風知草』など。何度も全集が組まれ、最近のものは全33巻。小説8巻、評論、感想、小品等で11巻。その他、書簡、日記、秀作、覚書が網羅されている。その他、書簡集に『往復書簡 宮本百合子と湯浅芳子』(黒沢亜里子編)があり、二人の生活を辿りながら、生の声を聞くことができる。
